もちつき

 友人宅でもちつきがあった。なかなか面白いものだった。もちを作るという行為は、思ったよりシンプルで、思ったとおり大掛かりなものだった。
 設備をセッティングして、大量のもち米を蒸して、蒸しあがって以降は、手早くこねてつかなければいけない。とても一人や二人で出来る作業ではない。ついた餅を丸める役まで考えれば、最低でも4〜5人の大人が必要だ。
 昔の田舎ではどの家でも年末に行われていたであろう餅つきが、段々と廃れていったのも分かるような気がする。要は、あれだけの人間を容易には集められなくなったのだ。スペースの問題もあるが、そもそも人を集められないのだ。今回のイベントのような形で、集めることはできるだろうが、本当に餅が欲しかったら、今回あつまった人間の家庭分の餅をつくことは大変な労働だったろう。その対価として得られるものが、「餅」なのであれば、いまどきの人々がわざわざ集まって労力を割くよりも、サトウの鏡餅や切り餅を買えばいいだけのこと。経済合理性を考えれば、餅をつく必然性などなにもないのだ。
 そうやって経済合理性で物事を割り切るから、大事なものが失われていくのだな、と改めて感じた。きっと、今日のもちつきを参加した子供たちの何人かは非常に楽しい思い出として記憶にとどめてくれることだろう。お父さんのかっこいいところを見れたことだろう。
 価値観が多様化する中も、複数人が集まらないと出来ないような、こういう「いい無駄」をどれだけ生み出していけるかが、コミュニティや個人にとって非常に大事だなと感じた。「もちつき」だったから集まったのであって、「もち作り」だったらここまで人が集まらなかったのじゃないか。
 これからも経済合理性のもと、非常に多くの「作業」は消えていくだろう。ただ、その作業を人をエンターテインするイベントにすることができれば、それは「楽しみ」や「趣味」といった形で残っていくことだろう。少しでも多くのそういう作業のもとの「技術」が、人々の多様性のもとに様々な形で残っていってくれること。そしてそういうものに、必要な時にネット経由なりでアクセスできる状態が築かれることを願ってやまない。