PCについて、或いは、ボクが会社を辞めた理由(わけ)

 母校のイベントのHP(http://orf.sfc.keio.ac.jp/program/index.html#05)を読み流していて、奥出直人教授のストリーム配信中で「ぉお」と思ったこと。

身体性の無いコンピュータ
アラン・ケイはいろんなことを発明して実現したけれど、ハードウェアを作るセンスは弱くて、ほとんどのものはソフトウェア的に生み出している、ということ。対極にあるのが、SGIを作ったジム・クラークということ。このあたりは、身体性のあるApple(Mac)とない(ソフトウェアのみの)Microsoft(Win)という話。

コンピュータがあまり人を幸せにしていないのは、このあたりの身体性の欠如にあるんじゃないのかと感じた。身体性を持っていないと、非常に閉じた感じになる(あぉいかん、こんなことを考えるとまた衝動的にMacが欲しくなる)。ネットワークをいう形で開いているのに、ツールが閉じている(あるいは、開かれた世界に繋がった閉じた窓、のイメージ?)。
 つづいて、奥出教授が初めてパーソナルコンピュータに触れたとき、この機械はどこまで人間の思考を深めてくれるのだろう、と驚いたのに、その後は「思考の道具」としてちっとも発展していない、ということ。確かに、今となっては、仕事でパワポを書くこと以外では、コミュニケーションの手段としてしかPCを使っていなかったりする。入力の効率の問題を除けば、ケータイ電話で充分事足りている。つまり、PCなんて不要だとも思える。PCが誕生したころのスペックから比較するとその発展には隔世の感があるのにこれは一体どういうことなのだろうか?
 一つは、産業として急速に発展し、その舵取りがOSの覇者(身体性のない)マイクロソフトによって行われ、その当時のスローガンが「Information At Your Fingertips(指先に情報を)」という事であったこと、つまり、より多くの人がより少ない労力で使用を覚えられる使いやすいものを生み出すことに、その多くの予算がつぎ込まれたことと無関係ではないだろう。結果として、思考のための道具としてのソフトウェアは、驚くほど当時から発展していない(アウトラインプロセッサーとか、シミュレーションツールとしてのスプレッドシートとか)。でも、難しいものを簡単にするくらいなら、最初から簡単なものを作ればいいわけで、携帯電話が好例であって、結果として、一般的なユーザのレベルで出来ることの差はこの両者には存在していない。振り返って(MSとしてのビジネスはうまく言ったのだろうが)人類の発展においてこの10年のコンピュータへの投資は正しかったのだろうか、と疑問を持たざるを得ない。
 ここにきて、ようやく、ボクが「internetを拡げる」プロバイダーをやめて、データマイニングの仕事を始めようとしたか自分でも気づいた。コンピュータの使い方は大きく2つあって、一つはインターネットに代表される「コミュニケーション」なのだろうけれど、もう一つに大量のデータを高速に演算するということがあると思う。そしてボクは前者はPCよりもケータイが実現しつつある中で、次の発展ということを考えた時に、後者に凄く惹かれてしまったんだ。思考の道具としてのコンピュータ。それがボクの30台前半のテーマなのだと思う。